ゆにぷろは、ぷれ開設後はスタッフも増えましたが、
長い間、主に2人のスタッフとボランティアさんで活動してきました。
2名のスタッフは、それまで仙台でしょうがいのある方の支援の仕事をしておりました。うち、一人は実家が津波で被災した地域にあります。今回の災害は、すぐに「自分事」となりました。
震災翌日、私は仙台に行き、もと職場のケアホームを訪ねました。法人関連の利用者さん、ご家族、職員がほぼ無事らしいことを確認し、当面不足しているものを聞き、翌日、とりあえず手に入るだけの物資を届けました。
山形は、震災当日も含め、山形〜仙台のバスが動いていました。
翌日も夕方から4便、3日目はほぼ通常通りの便が動いていました。
高速道路も、山形〜笹谷(宮城)は、一般車両を含め通行可能でした。
現地への道が閉ざされている中で、山形からはずっと行くことができたのです。
震災直後から「現地に行かないように」というアナウンスが盛んに行われていました。
しかし、通信が途切れた被災地の具体的な状況は全くわかりませんでした。
車で行ける山形にいて、宮城の土地勘・人のつながりのある自分にしかできないことがある。
あらゆるリスクも想定しましたが、迷いはありませんでした。
4日目からは、山形にもガソリンがなくなり、仙台に行くことは叶いませんでした。
そこから3〜4日は、仙台と連絡を取り続け、状況が相当悪化していることや、沿岸部が孤立している状況が次々にわかってきました。やるべきことははっきりしてきました。
その間、大阪、京都、奈良など関西圏から、元職場へトラック計10台以上で物資や炊き出しが届けられました。関西には、物もガソリンもある。そして、阪神大震災のリアリティがある。この関西の方々の行動は、現地の人たちを本当に勇気づけたと思います。
山形を拠点に、関西から現地へ、物資や必要なものをガンガン運べないだろうか。
大阪の友人にFacebookから「電話していいですか」とチャットしたところから、すべては始まりました。愛知の友人からはこのルートを1日で作るから、という信じられないような電話をもらい、関西の方々をはじめ、愛知、新潟、長野……、と怒涛の広がりを見せていきました。
こうして、最初の電話から約3日、3/20には地元の方々と全国の仲間とともに、仙台に拠点を作り、厳しい状況にある被災地へ物資や人的支援を行うプロジェクトがはじまったのです。
被災地の障害のある方へ手と手を「つなぐプロジェクト」(通称:「つなぐ」プロジェクト)私は、なぜか2月にFacebookを始めていました。始めたその日に、大阪の友人がアプローチしてきてくれました。このプロジェクトの始まりはFacebook。今回のプロジェクトは、その連絡のほとんどをFacebookで行っていました。ほとんどのメンバーが、使い始めたばかり。でも、使えば使うほど、このしくみのすごさがわかるものでした。
このプロジェクトは、4月10日をもって終了しましたが、今考えても奇跡的なプロジェクトであったように思います。
かかわった誰がいなくてもなしえなかったことでした。
今、ようやく大きな団体が支援の動きを作りつつあります。
そこまで、さまざまなことを「つなぐ」ことができたと思います。
ほんのすこしですが、しっかり顔の見える関係の中で、「必要」をキャッチし、時期を逸せず届ける。終始一貫して、そのことを貫けたと思います。
われわれの「つなぐ」プロジェクトは、終了しましたが
それぞれの、もちろんゆにぷろの支援活動はまだ続きます。
顔の見える関係の中で、現地の「本音」をキャッチし、できることはすぐにやり、そうでないことはしかるべきところに「つなぐ」。
自分たちにしかできないことを、これからも続けていこうと思います。
posted by NPO法人ゆにぷろ at 04:52| 山形 |
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
事務局日誌
|
|